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 悔恨とか追憶とか考えると歯痒すぎて死にたいほど叫びたくなるそんな瞬間に、どうにか理性を保って感傷的な音楽でやりすごすことにしている。

 感傷はどこにでもある、なんでもいい、だいたい皆思うことは同じなのだ。君と引き換えに私は自分らしさを知りましただの、言ってしまえば良かった本当の気持ちをもっとだの、それらしい言葉を並べても伝わることなど初めからないだの、なんか前向きなアップテンポだったりしてもだいたいの言葉には後悔とか悲愴が滲んでいる。そんな時、ああ、お前らどんだけ凹んでんだよ、もう世界なんか終っちゃえば良いのに、とか思ったりするのである(まあだいたいの場合恥ずかしくて自分で墓穴掘るような勢いでそう思うのだが)。

 終末でもないのにそろそろと物語の終わりを予感しているのは常の事で、あるいは僕のモラトリアムという幻想文学は既にピリオドを得ているのだから、今さらずるずる後悔とかいったエピローグを引きずる必要はないのだ。ないのだけれど、終わらせるのは寂しいからまだその醒めかけた夢の中に身を浸している。そしてそうか、俺は未練がましい男なのだな、と自嘲する。物語の終わりに気付かないふりをする、さかしいだけの、責任を放棄した今がある。

 いや、本当は物語なんてありはしなかったかもしれない、そんな一抹の不安、あるいは恐怖もある。俺って享楽的なクセに後悔しすぎるんだよな、という自己憐憫。

 記憶は捏造され忘却され、都合良く過去は淘汰されるものだから、誰かにとっての自分も似たようなもののはずなのに、欲張りなもので慈愛や救済を他者に求めたりする。そんな時思うのは、もう俺とお前はどこかで重なることはないのか、とか、それはまた言えなかった言葉が増えるということだよなとか、ああやっぱし今さら好きで仕方がないとか思ってる俺どうなんだとか、まるでもうジャンプ漫画の主人公並みに痛いことばかりなわけで(そりゃもう死にたくて仕方なくなるわけである)、まあ少なくとも今分かっているのは、秒速どんだけでかは分からないがいろんなものがいろんな方向に散り散りになりつつあるのが今だということで、だから待ってるだけじゃなくて追いかけるなり探すなりして、それらとの距離を少しでも縮めなくちゃいけないということ。だけれど、じゃあいったいどんなプロセスとスタンスでと考えると、あまりにも今が無味乾燥で絶望感に苛まれる。

 この空虚は過去との相対として感じているものなのか、それとも絶対的に状況が良くないのか、あるいは俺が思い込み強すぎなだけか(まあたぶん敗北感溢れる全部乗せなんだけど)。

 寂しさだけでどうにかなる気は毛頭ない、しかし寂しさにうちひしがれることが割りと多いのもまた現実。いやいや、だいぶ人生間違えた上に更に間違い起こすのかい、ありえないぜ、背後には孤独さんが慎ましやかに三歩下がってついてきやがる。



 まあひとまず、脳からドーパミンをドバドバ出す方法を探さなくてはと思っている今日この頃です。

 こんなことばかりぶつくさ言ってる俺負け犬決定な?
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 晴れ渡った空に、確かに夏の色は薄らいでいるような気がする。

 俺は奴とはそれほど親しくはない。
 記憶の中にある奴の姿も、今ではほとんど書き割りの中のアクセント程度のものでしかない。
 少なくとも、今の俺にとっては。

 誰かの死に絶妙なドラマを感じたり、人生の岐路に立たされた気分になって、これまでとこれからを考え込んでみたり。
 そこにはいつも罪悪感と、義務感のない交ぜになったような、ややこしい感情がある。
 そして誰かの死を悼むところから、やがて自身のありようについてを、自問し始める。

 俺は今、
 私は今日、
 何の遺恨も残すことなく、
 一生懸命に生きているのだろうか?

 荒唐無稽な命題だ。
 そこにY/Nの答えを見出すことは、真実できやしない。
 人生という現象は常に自己欺瞞でできているから。
 とりあえず俺達は、使命感に駆られることで自分を奮い立たせ、コンセントレートしていくしかないのだ。
 もっとも、そうした現実は、普段の“日常”という自己本意な生活の中では、意識されることはない。
 その程度に愚鈍で、余裕のない、俺達。



 何度でもいおう。

 死なんてものは、誰も意識しないところから不意にやってくる。



 誰かの死があってようやく心揺さぶられ、感情に駆られ、それでもほんの一時立ち止まって考えることしかできない俺達は、やはり間違っているのだ。

 人の死は本来その人だけのものであり、真実周囲の人間にとっての死たりえるものではない(なぜなら今日世界中に生きている人間は、まだ一度も死んだことがないのだから)。

 だから誰しもが、死を一度は恐れるのだけれど。
 枯野抄のほうが、まだましかもしれない。
 ただ生きていくためだけの、処世術でしかないが。




 生きることの意味とか。
 自分のこれからのありようとか。
 一日一日をベストを尽くして生きているかどうか、とか。
 落陽は、いつもこの身の側にあるのだ。
 誰かが死んだ時だけ、死という現象に痛み入っているのでは意味がない。
 もっと普段から、意識するべきなのだ。
 もっとも、死ばかり考えて生きることは、俺達にとっては拷問でしかないのだけれど。






 to tsukasa ando.

 お前はこれで満足だったのか?
 時間は平等だなんて、嘘っぱちだな?
 俺は今、死ぬことが怖いよ。



 なべてこの世は、不条理。
  
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