上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 どうも最近無性に悲しくなって泣きたい気分になることが多い、そんな気がしている。まるでメランコリーでロマンチックでまりっぢぶるーに陥った新婦のような科白だが、結婚どころか週末デートする相手との予定すらもない僕にしてみれば、実際僕のそれはどうもそんなメランコリーでもロマンチックでもなく、ただ純粋に悲嘆にくれているだけのように思える。
 23年生きてきて一体俺は何をしているんだという悲嘆。取り返しのつかないことばかりを繰り返し繰り返しやってきて、本来そこで学ぶべきものを一つずつ取りこぼして今に至ってしまったという後悔。後悔あとを絶たずなんていうがまさに僕の場合それは言葉のなすとおりで、時すれば思考は後悔と悲嘆に埋め尽くされてしまう。なんでこんな生き方しかできないんだろう、と嘆き、悲しみのあまり今目の前にある歩道橋から真下の交通の慌しい道路に身を投げ出してしまおうか、と思うのは一瞬で、そんな思考さえ怖くなってただただ嘆きに暮れるばかりである。どうもあれだ、安直な自殺願望のようでいて、いや実際かなり安直な自虐思考であることには間違いないのだけれどもすれすれのところでそれを交わしていて、妙にややこしいことになってしまっているように思う。武士道とは死ぬことと覚えたり、なんて葉隠れの引用みたいなことを実際考えて、「人生なんてものは死ぬためにあるようなもんじゃないか」と悲嘆に暮れてみるものの、はたして本当にそうとしか思っていないのかといえば、どうもそうではないように感じるのはそのためだ。まあ、それでもそれ以外に答えらしい答えが見えてこないものだから「やっぱり人生って死ぬためにしかないんじゃないの」と思ってやっぱり沈んでしまうんだけれども。どうもマイナス思考。でも仕方がない、物心ついた頃から僕はずっと死に怯える生き方しかしてこなかった。だからこれ以上どうあがいても、死ぬまで僕は死が怖い、死が怖いと嘆き続けて死んでいくしかないのだろうと思う。
 まあ、何が一番怖いって、具体的な死のイメージがこの身体になくて、想像しかできないから、知らないから怖いんだけどさ。

 そんなことを考えながら品川からの電車に揺られていた。
 鈍行の電車で、古本屋で買っていた漫画本を読みながらそんなことを考えるともなく考えていた。目の前に座っている水木しげるの妖怪漫画に出てきそうな顔をしたカップルをチラ見して、そのモブに埋もれてしまいそうな水木しげるっぷりの顔のぺらんぺらんに幸せそうなバカップル具合を見て、あーお前ら僕みたいな悩みなんて一度もひらりともよぎったことないんだろうなー、ありがたいことだよなーまったく、ってかお前ら公衆の面前でそんなベタつかないでよキモイ、キモイよと感じていた僕のこの感情はきっと侮蔑と嫉妬。そのカップルの目の前になだれ込んできて近くにいたちょっとヤン気味な兄ちゃんとメンチ切り合ったアル中気味のじいさんは横浜で降りた。さっきから妙に隣でもぞもぞしている上下黒のスーツ姿の男のポマードがテラテラ光って気持ち悪い。というかなんで座席が空いてるのに俺の横に密着するかのように体重を押し付けてくるのだ、こいつあれか、ヴァィせくしゅアールですか。そいつも横浜で降りた。うつらうつらしていると空いた隣りにちょっと可愛らしい感じのお姉さんが座った。こざっぱりとした印象の会社帰りのOLさんといった風なのだが、その手に持ち読み始めたのは手塚治虫の漫画だった(タイトルはなにか分からない、実はまともに手塚作品を読んだことがない)。へえ、なんか一瞬ペーパーバックの洋書とか読み始めそうに思えたのに、なんて思いながら僕は僕で自分の漫画に戻る。ページをめくる表紙にかすかに覗かれていると感じる。隣りのお姉さん、僕の呼んでいた漫画にちょっと興味を示したっぽい、漆原友紀の蟲師。でもよくよく考えるとまともに見ていないので、果たしてお姉さんだったのか若作りなおばさんなのかは様として知れない。弘明寺で降りた。水木しげるカップルは結局地元の駅で降りてからもまだ電車に乗っていた。

 家までの道を歩いていて、山道の階段のほうから中国語を喋りながら女が歩いてくる。40前、30半ばといった感じ。辺りではもう秋の虫が盛大な合奏をしている。そんな静かな夜にけたたましいプートンふぁ。ここはお前の住んでいたプーチュンでも黒竜江省でもなければ新宿歌舞伎町でもない、我がものヅラして大声張りながら夜道を歩くんじゃねー、そんな科白を金城武が演じた劉健一みたいな口調で頭の中でまくし立ててみた。
 道の途中、以前は家が建っていた場所がちょっとした広さの空き地になっている。去年の冬頃からずっとだから今ではもう草木がボウボウで、この時期だとずいぶんと背の高くなったススキが一面に生えている。これこそススキ野っていうんじゃないのか、なんて思ったところに、ああそう言えばススキ野ってのは札幌の歓楽街のことでもともとは遊郭になる予定だったところじゃん、秋葉原にしたって昔は江戸の町の火事よけのための空き地で、そのすぐ上が吉原で、考えてみればあの辺りってここと同じで辺鄙な場所だったんだよな、とか、よくよく考えて見れば思考がぶんぶんと飛びがちにしている。まるで電波。

 そのわりに、またちょっと具合が悪くなって病院に今日行っていたはずの友人に電話をしようとしたら、電波が悪いのでかかりませんといわれて、一体何のための電波かと思ったり、思わなかったり。

 僕の思う憂いごとなんて、所詮こんなものです。
スポンサーサイト



 モラトリアムとか特別な存在への憧れとか、そういうものをいまだにずるずる引きずっている気がします。

 人からいわれたら否定ができません。

 しかしその根底にある何かは、本来誰もが持っていながら、いつか失ってしまうような、そんなヤワなものではあって欲しくないのです。

 ええ、これはあくまで僕自身の願望でしかないのでしょうけれど。




 ・・・・・・んで、それがどうyoutubeと関係あんのよ?

 と、自分でつっこむ。
10.25 (Wed) 19:23 [ 動画 ] CM0. TOP▲
 死という概念をいつまで経っても受け入れることができないでオトナになってしまった。いや、今のボクは厳密にはまだいくつかのイニシエーションを済ませていないのだが、しかし世間一般にはもうボクはすでにオトナのくくりに入ってしまう、もうそういう年令になってしまったということを、思い知る。



 細胞が死に始めた。
 腹の底に何かが眠っているが、それももはや目覚めることはないように思う。



 さっき喉が乾いたので下のリビングに下りていき、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを一口あおった。ガラス張りの食器棚に写った自分の顔は、確かに中学高校、それ以前の頃の自分と比べればいくぶん老け込んでいる。だが、それだけなのだ。何も成長がない、ただ老いて、朽ちていくだけなのである。それはとても恐ろしいことであると気づく。ボクには生きていくうえでまだまだ不自由なことがたくさんあるというのに、なぜだかもうボクには進歩という可能性が閉ざされてしまっているかのように、その瞬間に悟った。そう、ボクはこれ以上、もはや何もできずにただ老いて、いつかどこかの道の途上に擱座することになる、それがぼんやりと悟られた。

 死なんてものは本来人間が意識しないところからやってくる。そんな詩めいた諺にもなりきれていない言葉があるが、それは本来フィクションだ。なぜ皆そんなフィクションを信じて、忘れたフリして生きていくことができるのか。都合よく忘れて、いざ事が起こると悲しみ悔やむというのでは、あまりにもナンセンスだ。ボクは死ぬのが怖い。やりたいことがたくさんある中で、一体何をやってよいのか分からず、何もできずにただ朽ちていく。それが最も怖い。怖くて何もできない、という現実。それがどうやら、今のボクの現実。

 こんなのは自分じゃない、と思うことが確かにある。
 そういう人間のことを世間一般じゃナルシストと呼ぶらしいが、一体世の中の人間のどれほどがそうでないと言い切れるのか。髪を染め、ダイエットをし、化粧をし、着飾り、アイドルやタレントの真似をし。そうした自己の理想へと近づこうとする意思をナルティシズムと呼ばずして、一体何だというのか。
 ボクはボクという人間がナルシストであるということを否定できない。オリジナリティというフィクションをどこまでも追求し続けるこの未熟な魂は、確かにナルティシズムを原動力にしてそれを導き出さんとしている。こんなのは自分じゃない、という幻想。では、どんなのだったら自分らしい、というのか。
 絵が上手く描けるようになりたい。大きな魚を釣りたい。もっと運動がしたい。演劇や、恥ずかしながら音楽なんかもやれたらやってみたい。色々なことを通して、いつまでも若々しくいたい、色々なものを感じたい。趣味をずっと続けていたい。仲間や友人との縁は潰したくない。誰かに確かな他者として認められたい、求められたい。etc.etc.
 自己実現とそれを社会的に承認してほしいという願望。自己実現というイニシエーションは、次第にある一定の世界において確たる自分を形成し、それが深く受け入れられることを願う。そうしたことを原始的なレベルでは無自覚に行ってきのだが、今ではひどくやり辛くなってしまった。ボクにはボクが理想とする自己実現など到底できやしない。いつからかずっとそんなふうに思っている。かりそめの自分のようなものがいつの間にか独り歩きを始めていて、そいつはボクの中では常に標榜される自己の一つのカタチでありながら、同時に自己であることを否定され続ける。
 そして、
「では本当のお前は一体何なんだ?」という命題。
 答えなど見つかりはしない。

 学校からの帰りの車内。
 ひさしぶりに懐かしい地元の友人にバッタリと出会った。
 妻子持ちの彼は新たに職場を今までとは別の場所に移し、その仕事からの帰りだという。少し以前よりも痩せたように見えるが、その顔は活き活きとしているように思えた。
 ボクには今の自分の現状が、酷く滑稽に思えた。
 夢なんて雲みたいなものを追いかけ続けることはボクにはできない。けれど、彼のように現実にしっかりと根を生やし、生きていくことすらもできていない。
 結局ボクは、どっちつかずの規格外でしかないのだと悟る。



 30歳まで生きていたら、誰かボクのことを褒めてください。
 そんなことをふつふつと思いながら、まだ生きている。



 カミングアウトしておきます。

 ↓もし万が一、こちらをダウンロードしたい方に、軽量版を紹介↓

男の子と女の子[ラーゼフォンAMV]

 PASSはHNです。
10.20 (Fri) 18:14 [ 動画 ] CM0. TOP▲
 とある用事からの帰りの車内、母との会話。


「代理母とか養子縁組とか、『ばあちゃんから生まれた』孫ってのもねえ」

「そんなこといったら俺不妊治療の子供だろが。人為的なことには変わりなかろうが」

「あら、あんた別に排卵剤で出てきた子じゃないわよ」

「あら?」

「そりゃ、お兄さんが生まれてから5年くらいは色々頑張ってみたけれど、排卵剤使わないかって医者から相談されて、ひょっとしたら万が一双子が生まれてしまうケースもありますよっていわれて、そりゃ子供は欲しいけど、お兄ちゃんだってまだ手が離せなかったし、そんなところに双子ってのも、ちょっと大変でしょ? だからやんなかったのよ、排卵剤のほうは」

「え、じゃなんで俺できたの?」

「そのあとテニス始めたり水泳教室行ったりして、親子3人でわいわいやっていたらある時急に気持ち悪くなって、医者に行ったら妊娠してるって。どうしてできたんでしょう、ってお医者さんに聞いたら、『そりゃあんた、あんまり大声じゃいえないけど。体格が良くなったからでしょう』って。そうなのよね、お兄ちゃん生んだ時は40キロあったかなかったかだったのよねえ、あたし」

「はあ。。。ようはあれですか、栄養状態が良くなったらぽんぽん生まれたと……」



 家畜かなにかか、俺はww


 ちなみに、母親の素敵な人生設計によると、大学に行っていたら25で結婚して“美しい”うちに子供をポンポコポンと3つくらい産んで、後は素敵な人生&家族ライフを過ごす、というプランでいたようです。


 母親が結婚して子供(長男)を出産したのが23の時。

 今の俺と、タメです。

 ありえません。

 ありえなすぎです。

 まともに人生設計とか立ててねえってば、俺ww



 今の世代って、確実に将来設計とか、人生の密度が違うんだよな。と、ぽそりと思いましたとさ。
10.17 (Tue) 21:01 [ 備忘録 ] CM0. TOP▲
 マンガな状況を笑えない現状。


 北朝鮮が核実験を行った、という。

 ついに来るべき段階へと、また一歩次のステップへと進んでしまったという印象が、第一報の直後から世論を震撼させた。

 よくよく考えれば、NPTを脱退し、核弾頭保有を以前からことあるごとにそれらしくほのめかし、テポドンやノドンといったミサイルによるデモンストレーションを度々行ってきたのが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)という国家である。そうであるならば、果たしてなぜ今まで核兵器、ならびに核技術を保有しているかいないかといった問題を、真の懸案としてもっと問題視してこなかったのか。そういうことが、この現段階では問題にもなってくるのだろう。

 仮想敵国という表現が誇大妄想的でもあることは重々承知しているが、着実にステップを踏んできた経緯があるのにも関わらず、いざ核実験挙行の報を知るや否や、我々は慌てふためく国会議員たちの中継映像をこうして眺めることになってしまっている。これは、ある意味では“失政”といわざるをえないのではないか。

 そしてこれが、我が国の“国家”としての現状をもっとも克明に示し出している。

 政治が人間の思惑によって練り上げられるものでしかない以上、常にその選択には意思的で、逆に選択されなかったものに対しては不思議と無関心になってしまうのと同じように、我々は常に自身の興味のいかないものに対して、或いは興味の薄れたものに対してはことさら無関心になる。それは“戦後”という特異で反動的な時代のコンテクストによって築き上げられた“平和”という幻想の産物であり、“平和”と“無関心”とはこの国では常に切っても切り離すことの出来ないものとして、絶えず我々の抱える諸問題の水面下に存在した。

 こういう状況に至って、そうした我々のおめでたい現状をとみに感じさせられているのだが、では果たして、このように思っている今の僕という存在は、果たしてどういった思惑によってここにあり、こうした小論をぶつに至ったのだろうか。教育、政治、テレビ、歴史、家庭、文化、国家、或いはそうしたものの総和としてある、僕という人間の趣味嗜好。それは、果たして僕が僕自身のアイデンティティとして導き出した僕という人間の“真”である、というのはもはや明らかな間違いであるとは言えないまでも、決して真実とは思えない。僕達の意思は常に僕達自身のものであると同時に、どこかの誰かによって作り出された幻想である、という現実を、僕らはいつも、どこかに置いてきてしまう。


 北朝鮮の核実験。

 日米中ロ韓による6カ国決議の早期再開打診と、それを拒否する北朝鮮。

 国連で決議されるだろう北朝鮮に対する制裁措置と、その先にほんのおぼろげに見え隠れする、大国主導による武力的制裁措置をも辞さないような現状。

 まるでサイバーパンクアニメーションのシナリオのような現実に、思わず苦笑した後で僕はふとこんなことを考えてしまった。

 果たして、北朝鮮は本当に核実験をしたのだろうか?

 一連の状況に対して何だか出来すぎていると思っていたら、途端に皆“疑念”を抱き始めた。

「北朝鮮は、本当に核実験をしたのか?」

 そんな初歩的な段階をすら、そもそも僕達は踏み外してしまっている。

「北朝鮮にはまだ現実問題として核兵器を作り出す技術はない」

 なんていう知識者の見解におぼれて政策をおろそかにしてきたのは誰か?そういうこと以前に、核を持とうとする意志をどうにかする、曲げる、反らすだけの措置を、もっときちんとするべきではなかったのか。


 政治は人間が作り出すもの。

 空想を現実のものとする、ファンタジーよりも恐ろしい、何か。

 僕達は時々、そのことを忘れてしまう。

10.12 (Thu) 00:15 [ 茫洋文 ] CM0. TOP▲
 最近、週末の過ごし方がもっぱら釣行になっている。

 釣り――海釣りをここ最近、特に今年の夏以降、頻繁にするようになったことは、以前にもここで書いた。

 もうなんというか、しばらく日記のネタが釣りか、それに関連したねたばかりになっている。周りにも釣りバカかアニヲタか、2つのうちのどちらかでしか評価されなくなりつつあるほどで、うーむ、これはまた妙な病気にかかってしまった、とちょっと自分でも時々振り返ってあきれてしまう。

 しかし、やはり一度やり始めると釣りというものは楽しいもので、もちろんそうして釣りをしている時間を過ごすことが楽しいのだが、それと同じくらいに釣りに使う道具を集めるのが、また楽しかったりする。

 先日、新しく新型のリールとPEラインタイプの道糸、それに仕掛けに関連した道具などを購入した。
 まだまだほとんど知識がないので、よく釣りに行く友人とともに、これはどうなんだ、あれはどうか、といった具合に商品を一つ一つためつすがめつしながら、そうした時間を楽しんでいる。物事はなんにしてもそうなのだが、一度はまってしまうと奥が深く、そして僕は、そうしたものによくのめりこみやすい。

 そして、困った事に気がついたのである。

 なんか、この釣りという新たな趣味に、散財気味になっている自分がおります。。。

 orz

 カネガトンデイクネーww

 釣竿をまだ1本しか持っていないのに、リールは既に2つあるという。これでまた新しく竿を買ったりしたら、その時点で僕は自分が釣りバカであると認めなければなるまい。。。


 で、そうして買った新たな釣り道具を携え、昨日友人と久しぶりの(といっても実際には1週間しか経っていないのだが)夜釣りに行ってきた。

 で、今回の釣果をいいますと。

 今回は三浦半島南端の城ヶ島での初トライということもあって、なかなか状況が読めなかった部分もあり、何も出来ずに早々に退却、結局いつものように夜明け前には長浦に行ったものの、結局のところ。。。

 なんといいますか。

 超・ボーズ(泣。

 正直、かなり参った。。。

 もちろん、ヒットが全くなかったわけではないのだが、やはりきちんと狙うモノを決めて、場所を選んで釣りをしたほうが、それなりに事は運ぶのではないか、というのが浅知恵ながらの感想である。

 それなりに、何度もメバルがかかってはいたのだがなあ。うーむ。。。

 ちなみに、今回何が一番嫌だったって、ボーズだったことよりも何よりも、ゴンズイがやたらとかかりやがった、ということである。

 本来、外道だからってないがしろにしたり、むやみに殺したりすることはするべきじゃないのだろうが、こいつを釣ったときほどむかっ腹に来るものはないなと痛感した。


 やたらと動き

釣り客に期待させ

あげたら外道で

しかも毒持ち

食うには及ばず

餌だけ食いちぎり

よく暴れるので仕掛けが壊れる

俺、もう超ゲンナリ。。。


 ゴンズイがかかったのが、その今回全くあたりのつかめなかった三浦半島南端の城ヶ島。インターネットや雑誌などで見るとクロダイやメバルなどの磯釣りポイントとして有名なのだが、こともあろうに我々、そうした情報収拾が今回はとにかくできていなかった。

 参ったものである。

 これでゴンズイの毒にでもやられていたら、もう当分釣りに行く気をそがれてしまっているのだろうが(もちろん、今回の夜釣行においてこのゴンズイが多大な精神的ダメージを与えてくれたのはいうまでもない)。

 今度から、きちんと何を釣るかを見定めて、仕掛けなどをきっちりと研究していくことにしよう、という貴重な教訓を得たことだけでも幸いか。


 しかし、いつも朝方になってどちらからともなくつぶやくのだが、

「なんで俺達夜釣りばっかなんだ?」

 昼の釣果と比べると一風変わったヒットが多く、またタイミングを見計らえばかなりの釣果を期待できるのが夜釣りだから分かるのだが、さすがに夜ばかりやりすぎると身体にこたえる。


 夜釣りも計画的に行わねば、もちろんお金の管理もね(散財禁止っ!!

 
10.10 (Tue) 23:41 [ 釣行 ] CM0. TOP▲
ええ。

あの、バカです。

バカはもともとなのですが、

最近ますます釣のほうのバカに、

若干なりかけていそうな自分がいて、困ります。



朝からバイトでした。

8時半に大森でお仕事開始です。

案外きちんと寝れていたので今日は楽でした。

でもさ。

空が、もんのすげえ快晴でやんの。

秋空というか、もう若干夏空というか。

陽射しがどんどんきつくなってくるし、顔の皮膚はひりひりしはじめるし。

昼前にはちょろーんと入道雲のやろうが見え隠れしやがったし。

今日大潮だったし。

台風一過の後って、海中のプランクトンが巻き上げられて、にょろーんと濁って魚は喜んでるだろうし。



ええ、喜べてないよ、一人だけ。

なんでこんなに良さげな日に、バイトしてんの俺。。。



バイト帰りに母と車内で会話をしました。

若干カタコト語っぽく書き出しているのは、演出です。


「おかあさん、僕はメバルとカサゴの区別がいまだによくわかりません」

「サッパとはなんですか?雑魚のことですか?」

「サッパとはママカリのことです。関西方面ではボラ同様、よく食べるようです」

「そういえばむかし、流れ着いた精霊舟でよく釣りをしました」

「お母さん、あなたは何をいっているんですか?」

「むかしは親切な家のない人が、よくそうした精霊舟を丈夫なロープでくくりつけておいてくれました」

「お母さん、あなたは今微妙にタブーに触れているのではないですか?」

「釣った魚をほとんど持ち帰ったことがなかったので、よくサチコ(母方の祖母)から怒られました」

「お母さん、あなたは今の僕とほとんど変わらないではないですか」



気づきました。

今の俺、どうも困った事に、母親ゆずり。。。



恐るべし、ミチコ(母)。
10.07 (Sat) 20:50 [ 備忘録 ] CM0. TOP▲
 そのことについて、特に意識してきたことは、ない。
 幼い頃から、ずっとそうだったように思う。
 ただ、日本は日本でしかないと、どこかで認識してきた。刷り込まれてきた、ともいえるかもしれない。
 アイヌの問題、沖縄の問題、在日朝鮮人がどうのこうの、難民認定の問題であーだこーだ。エトセトラ、エトセトラ。
 それらは常に“日本”ではないもの――“日本”ならざるものと、“日本”との衝突の場であり、個々人にとっての、或いは国家にとっての自己と他者の関係を浮彫りにする、“単一民族国家”という幻想が見定めるべき、問題の焦点である。
 であるはずなのだが、今日国会の議論や、世間一般の認識――“日本”という国家に人々が抱くイメージには、いまだに“単一民族国家”という幻想が介在する。すでに“アイヌ”や“在日朝鮮”といった明確な他者の存在をその体内に見出しているにもかかわらず、その他者との係わり合いについての経緯、その現状、そして真相――“単一民族国家”という幻想のある訳を、知ろうとしない。いわば、真に問題であるはずの“アイヌ”や“在日”といった他者が、部分的に(或いは深層意識において)他者と認識されていない現象がある。問題の具体と提起された問題の真実とが乖離している――“日本に在る、日本ではないモノ”と称されているにもかかわらず、我々はいまだに“単一民族”であると信じ、あまつさえ疑おうとしない。
 人々は、まるでそのことを疑おうとしない。鼻にもかけない。

 僕は別に、在日朝鮮民族に対しての擁護であるとか、アイヌ民族(北方民族)の自治独立を肯定しているとか、そういういわゆる国家に対してのアンチを唱えるつもりはない。それは個々にやりたいやつがやれば良いことで、僕自身はそのことに対して興味こそあれ、活動に取り組む動機がない。
 ただひっかかっているだけなのだ。
 僕は日本人であるが、国家の所有物ではない。
 だから、同じ民族だから、とか同じ日本だからとかいった理由で簡単に何かの思想や社会プロセスに迎合することを良しとはしたくない。もちろん、それは僕が一度も日本から外に出た事のない、パスポートを申請したことのないような、古い類の人間だからというのもあるかもしれないが、しかしそれが僕の現状だ。
 自己のアイデンティティやルーツを導き出し、捜し求めたその先に、或いは国家というものを部分的に拠り所にすることは間違いではないと感じているし、一時期はそれこそが僕を僕足らしめる“何か”なのではないかとさえ、およそ誇大妄想的ではあるが感じていた。
 しかし、たかだか一個の人間がそのアイデンティティを形成するに際して、はたしてどれほどの領分を国家に頼らなければならないのか?国家がなければ、人は人になりえないものか?およそ国民国家とか自由主義とか呼ばれる主義主張を主とする国家に属する人間にのみ、国家や民族や宗教を超えて、基本的人権が与えられるのか――、現実の法制度はさておいて、真実人間の理想がどのようにあるべきかを考える時、その答えは否であろう。それは現実を知らない、甘い考えだといわれるかも知れないが、政治なんてものは、本来理想論者達が集い、暗中模索しながら行ってきたものであり、この僕の論ずるこのような世迷言と、一体どれほどの違いがあるというのか。
 人間は、或いは国民は、本質的に国家の所有物ではない。
 しかしその国民は“単一民族国家”という幻想で束ねられる。そういうケースは、よくある。

 今日の政治家の言説が、はたしてどこまでリベラルであるだろうかと考えると、おおよそそんなことはありはしない。基本的に、或いは必然的に、政治は、何かしらの因習や文化、はたまた宗教や経済によってがんじがらめになる。だからこそ、リベラルなんて姿勢はありはしない。誰もが幻想を幻想と気づかずに、或いは黙殺していく。小さいものには目もくれず――或いは、そうした小さいものをこそ政争の具として、“日本”という大事を解消する術としていく。だから、そんなものにアイデンティティを――僕という人間の拠り所を求めてはいけない。

 単一民族国家なんて言説は、誰かが云い出した世迷言でしかない。それは僕がこのブログでやっていることとなんら変わりない。
 だから、安易にそんなものを、信じたりしてはいけないのだ。























 ………やべぇ、何いってるのかわからなくなってきた(汗。
10.04 (Wed) 18:47 [ 茫洋文 ] CM0. TOP▲
蟲毒(kodoku)
ムカデ、蜘蛛、サソリ、蝦蟇、ヤモリなどの有毒生物(あるいは有毒ではない)を、1つの甕(壷)にいれ、密封した暗闇の中で共食いをさせ、最後に生き残った一匹から取った毒のこと。また、その蟲そのものを指すことも多い。

暗闇に閉じ込められ、共食いをさせられた生物の恨みの力を利用した、呪術の類の一つ。


孤独(kodoku)
仲間や身寄りがなく、ひとりぼっちであること。思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと、そのさま。




 死にたくない、一人で死ぬのが怖い。いつまでもそんな衝動に取り憑かれて踊らされている。
 真面目に生きることを恐れ、闇の中で一人膝を抱え、一寸先の未来さえ信じることができずに震えている――。この闇は、大きすぎる。
 目を開いていても、閉じていても、ここには闇が広がっている。ますます身動きが取れなくなり、自分には最初から闇しかなかったのではないかと思い至る。


 一人で生きるのはたぶん辛い。
 けれど僕はいつの間にか、一人でいることのほうが、日増しに得意になっていくようだ。
 一人で生きることの孤独と気楽は、表裏一体なのだと気付く。
 ある人は僕をして人間嫌いだと嘲笑った、僕は日増しに一人でいるのが上手くなっていった。
 一人でいたくなどないのに。一人で生きたくなど、ないのに。


 心を開くことができない、いつもどこかでこの自分は演じられた自分なのではないかと疑っている。上手く笑えない、調子が良い、自分勝手と言われる。
 付き合っている人のことを、信じることよりも疑うことのほうが多い。充足感はなく、いつも満たされず、すべてを任せることができない。相手が本当に自分を信じてくれているのか分からない。自惚れることすら出来ない。だから、孤独。
 ある人は僕のことを優しいといった。けれど僕の中に、果たしてどれだけの誠実が、優しさがあると言うのだろう。あるのは猜疑心と自己欺瞞と、それらを養ってきた孤独だけ。


 誰かのための誰かになることが、僕にはこれほど難しい。そうして僕は、誰とも打ち解けることができずに、誰にも理解されることなく、いつかいなくなるのだろう。


 一人でいたくなどないのに、一人で生きたくなど、ないのに。




花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

―――吉野弘<生命は>
 現在、文学座付属演劇研究所の研修科に所属している先輩がいる。
 大学の演劇サークルで知り合った女の先輩なのだが、この人がまたえらく芝居馬鹿である。

 なんというかもう、カッコいい。

 演劇に臨む姿勢が、いい。真似たい、学びたいと何度も思ったものだが、なかなかそう簡単に本質の一部を盗み出せるものでも、ましてや追いつけるものでもなく、ただただ垣根越しというか、いやそもそも俺とあの先輩は同じ垣根同士でつながっていたのか?と思うほどで、ただただ脱帽である。

 本日は、その先輩が出演する文学座研修科の方々の発表会公演「天保十二年のシェイクスピア」を、たまたま地元に帰省していた友人とともに観てきた。


 ちなみに文学座はこんなところ。

 [文学座]


 江守徹とか橋爪功とか桃井かおりとか松田優作とか、あとはちょっとヲタ入った人には白鳥哲がいる(いた)ところだというと分かるだろうか。


 総武線の信濃町駅で降りる。

 慶應病院、慶應医学部、東京電力病院。駅前からの通りに面した街のつくりはどことなく目白と似ているような気がする。と、そうした道のりを駅から少し歩いた場所にある、一見すると古ぼけた日本家屋、あるいは柔武術の道場のような作りの、こぢんまりとした平屋の建物。大通りからは一本入るが、確かにそこには「文学座」の看板がある。

 文学座アトリエ。

 いや、俺こんなところそもそも来たことなんてねーから、ちょっと独特な門構えとかに最初からビビリました(汗。


 ちなみに信濃町駅周辺、“青と黄色と赤”の会が、そこはかとなく色々な企業、施設、店舗の趣を彩っておりまして、なんというか、ちょっといろんな意味でアウェイな感じでしたww


 戯曲“天保十二年のシェイクスピア”は、そもそもあのお芝居でえらく有名な蜷川氏が最近やっているのでも知られるあれだが、ちょこちょこといろんな人達(上川隆也、唐沢寿明、藤原竜也、篠原涼子etc.etc)が出演したり、或いは色んな演出家が演出したりしており、色んなところでやっているっぽい。

 とはいうものの、それはどうやらふいやんの浅知恵だったようで、どうやら上演時間が長い都合上、あまり公演される機会はなかったようでもある。これはたぶんに近年蜷川芝居が人気を博していて、やたらとプレビューされることになったからかもしれないが、おかげで何だか知ったかぶり爆発である(失笑。でもかっこつけずに訂正も削除もせずに、厚顔無恥にそのままにしておこう)。ちなみに初演は1974年(出口典雄演出)で、2002年には(いのうえひでのり演出・この時に上川隆也や阿部サダヲ、沢口靖子らが出演)、2005年(蜷川幸雄演出・こっちに唐沢寿明、藤原竜也、篠原涼子などなど)にも上演されている※。

天保十二年のシェイクスピア - goo Wikipedia (ウィキペディア) 記事検索より。


 脚本はシェイクスピアの戯曲をいくつか同時に練りこんでいたりして非常にうまく出来ていると思うし、そのシェイクスピア劇が“天保十二年”という時代設定のもと、浪花節でヤクザ活劇な講談『天保水滸伝』とミックスされた和製劇に上手く翻訳されている。ところどころに“幕兵衛”とか“三世次”とか“よだれ牛の紋太”とか、分かる人にはわかるシェイクスピアなキーワードがちりばめられており、芝居を見ながら「あー、あれはこれか」とか「おーあんたはやつか、そう絡ませるか」とかいった発見がある。もちろん、そんな知識やウンチクを知らない人が見ても、十二分に楽しめる作品だと思う。


 でね、やべーんですよ。

 いっしょに来ていた友人とともに、爆笑の渦に若干飲み込まれた前半。


「水門を開け」

「畑を耕せ」

「種をまけ」

「人足寄せ場で鍛えたこの俺の棒さばきを~(云々)」


 …気になる人は、ぜひ舞台か舞台を収録したDVDなんかを見てください(笑。


 役者ってすごいわね。やー、何年かぶりの衝撃を受けました。だって、あんなに綺麗なのに、カッコいいのにねー…という(『…』は想像してください。


 今回観た舞台は、前後半にわたり歌や楽器の演奏が舞台全体の雰囲気を非常に上手く作っていたと思う。キャストの演技は皆つねにアクティブだし、いや、そもそもみんな上手い(文学座の研修生だし、当たり前っちゃ当たり前なのかもだけれど)。なんというか、見ていてほんのちょっと気を抜くと、彼等のパワーに負けるような気がするほどである。また、場転の際の置き道具の変化とか、時折ものすごく「いやーん」なシーンを作り出す空間作りとか、ああいうものもあそこまで作り上げると、なんかもう画期的というか、眉唾物というか、驚きの連続である。やーだって障子の影であんなことやこんなことや…なシーンの作りかたったらもう、あれ以上すごいものはないんだもの。舞台に出てるわけでもないのに観客席で感じるものとは違うドギマギ感を覚えた理由は、今回ふいやんが座った二階席から、舞台で繰り広げられる障子越しの塗ればの真相がなんとなく見えたり、見えなかったりしたためであるww


 全体的な印象をいわせてもらえば、前半が非常によく練られていてまばたきしちゃいけない感じ(笑。
 後半になると、前半と主要登場人物の数が変わってしまうので静かな印象で、ちょっと間延びしたような印象があったか。前後半で3時間という長丁場にしては、でもかなり良い形にまとまっていたんじゃないかと思う。最初にあげた出口典雄演出の初演の時などは4時間半もかかり、終電を気にして帰る客などもいたほどらしいからねww

 あとは、これはごく個人的な感想なんだけれども、今のことに合わせていうと、後半はシェイクスピアのある戯曲一本だけ(リチャード三世だったか)がベースになっていたようので、やはり前半のような混沌とした中でのめまぐるしさのようなものがなく、淡々と、ある種“動の後の静”といった具合に静かな物語進行になってしまったように思う。これには俺が一時期色々シェイクスピア読み漁っていて、ある程度主要な悲劇の脚本を知ってしまっていることもあったとは思うのだが。やっぱり分かってしまうストーリー展開で、少々、一人で飽きてしまっていたのだろうか。。。もちろんところどころで面白かったり、笑える要素はあるんだけれど、うーん、、、むずかしいところかしら。




 とまあ、色々いってまいりましたが、良かったです。

 非常に良かったです。

 メインキャストは、やはりここぞという時の見せ場が凄いし、とにかくみんな、やたらと動く。これが若さですか、研修生の若さですかっ、若さゆえの過ちというやつですかっ?!

 あれだけ動けて歌えて踊れて喋れて、やってる最中の疲労困憊ぶりったらきっときついかもしれないけど、ゼッテー楽しいだろうなww


 しかも今回、研修科所属の研修生による“研修科発表会”ということで、タダで見せてもらったので。ええ、ケチケチ貧乏のふいやん、ご満悦です(うわわっww

 そして、帰りがけにアトリエ裏で黙々と煙を呑みながらたたずんでいる江守徹大先生を見て「うお江守だー」とミーハー根性ww

 よくよく考えると、その先輩の卒業公演の時にも、下北沢の小屋の正面にあった喫茶店から江守徹が出てきて「なんだシェイクスピアやってんのか、お前らどこの団体だ?」とかいった感じのからみがあったりしたんだよな。。。




 自分のいたサークルの先輩が頑張ってやり抜いてきた証みたいなものを、ちょろーんと見せてもらったような気がします。筆舌尽くしがたし、非常に言葉が足りないかもしれないけれど、凄いなあみんな、と思素直に感動。




 あらためてこの場をお借りして、

 おようさん、ありがとー!!


 まだまだあと少し、頑張って。




 …でもでも、何年かぶりの第一声が「最近釣ってるらしいじゃないのー」って、露骨にミクシぃですよ、それww

10.01 (Sun) 03:22 [ 芝居 ] CM0. TOP▲
  
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。